子供が小さい頃、イヤイヤ期というものを経験する。
「ヤダ」
「やだ!」
と主張を始める我が子がかわいくもあり、困ることも多い。
何に対しても「ヤダ」と言うのだが、最近面白いやりとりがあった。
子「これは何?(指で床を指し示して)」
親「これは床だよ」
子「ゆかヤダ!」
僕「( ゚д゚)」
子「これは?(机を指し示して)」
親「これは机」
子「つくえヤダ!」
僕「( ゚д゚)!」
机が机であることにヤダ!と言う発想は大人にはない。
机は机だ。
一定以上の年齢の大人に聞いたら、ほぼ100%机を机を答えるだろう。
しかし、子供にはまだ「それが机という名のものである」という認識がない。そしてイヤイヤ期においては、それが机であると呼ぶことを拒否すらする。
しかしここには哲学的な重要な問題が提示されている。
「それ」は本当に「机なのだろうか?」
アリから見たら「木の丘」に見えるかもしれないし、
宇宙人から見たらゴミにしか見えないかもしれない、
わが子からみたらそれは机ではない。
一時期哲学の本を読み漁ったことがあるのだが、これは「主観と客観の一致」という問題に似たところがある。
物事を認識するときに、僕らは目で見て脳で判断する。だが、認識するにあたっては知識や過去の経験に基づいて判断することになる。
だから人によって捉え方が異なることがある。
机を机と認識する人の方が多いだけであって、何も知らない赤ちゃんは机と認識しない。赤ちゃんにとってはそれは「机」ではない。
色、も一つじゃない。
茶色い机だって、太陽の下で見る色と暗い部屋で見る色は違う。
同じ場所で見たって、光の当たり具合で違って見える。
同じ角度から見たって、サングラスをかけている人とかけていない人では見え方が異なる。
今目の前に広がっている世界が、存在する世界なのか、夢の世界なのか。
「ほっぺをつねっても痛い夢」を見ているかもしれない。
30年間ずっと夢を見ているかもしれない。
もしかしたら夢の中で夢を見ていて、その夢の中の夢の中でさらに夢を見ているかもしれない(そういう映画もあった)。
そうやって考えたときに、絶対にそうだ!といえるものが世の中にあるのだろうか?
デカルトは「我思う、ゆえに我あり(Cogito ergo sum)」と言った。
あらゆるものを疑ってかかっていったとき、考えている自分自身だけは確かである、とたどり着いた、と読んだことがある。
仮に誰かが自分を騙したとしても、騙されている自分がいるのは間違いない、と。
話がだいぶそれてしまったのだが、今日言いたいことはこうだ。
「世の中絶対にこうだ!」と言えるものなんてほとんどない。自分が机と思っているものすらみんなにとって「机」かどうかは確かではない。
人によってはそれは机に見えない(見たくない)こともある(極端な話)。
逆もしかり。
「これはこうである」と皆分かったように言うが、本当にそうという確証はなかなかないもの。自分にとってそうだとも限らない。だから一度「事実とされているもの」を疑ってかかって調べてみることが大事になる。
最近SNSでそれらしい情報が出回り、あたかも真実であるように語られるのを見かける。嘘か真か分からないのに。
そして時間をおいて今度は「それは本当ではない」という情報が回り始める。
タイムラインに流れてくるTweetに出会うたびに僕は思う。
こういった情報に踊らされるのは無駄な時間だな、と。
自分で見たものしか信じない、という人もいると思う。僕もどっちかというとそっち派。自分で見たこと感じたことを重視し、直感を大事にしたい。ほかの人の意見じゃなくて。
子供の「机ヤダ!」から考えさせられたこと。それは、正しいと思っているものが正しいとは限らないぜ、ということだ。
ましてSNSで流れてくる情報なんて正しい保証なんてない。
それは正しいのか?事実なのか?
それは重要なのか?
こんな時代だからこそ、情報を理解するフィルターというかリテラシーを高める必要があると思います。はい。これが今日の言いたいことでした。
今日の独り言おわり。